『あちらにいる鬼』 井上荒野
人気小説家を挟んで、聡明で美しい妻と自らの感情に素直な女流作家。その3人の48年を綴る物語。ふむ、ありていな話だ、と思う向きもあるだろうが、モデルが〝井上光晴〟と〝その妻〟と〝瀬戸内寂聴〟で、物語を紡いだのが井上の娘でもある直木賞作家・井上荒野となれば、がぜんミーハーな興味が沸く。もちろん、物語は小説で、3者とその周辺を彩る人々もまたモデルであるだけ。フィクションでしかない、ということを理解しても、読了するまでその亡霊たちからは逃げられない。
恋愛はどちらかがはっきりとお相手への気持ちを告げたとき、あるいは肉体的な触れ合いがあったときに始まるのではなく、確信的な予感を受け入れたときから始まること。それが不倫である場合、3人3様それぞれにリスペクトをしていなければ、そのバランスは保たれないこと(あるいは不倫を始めた二人が完璧な共犯者となって誰にも知られないまま墓場まで事実を持っていくこと)。それゆえに3人が3人とも、誰のことも責めないこと。いつの間にか、ひとりの男性(あるいは女性)を挟んで2人は共同扶養者のような存在になること。物語を進めながら、そんな発見をした。猛烈に艶っぽかったのは、僧侶になるために剃髪する女流作家の髪の毛を小説家が洗うシーン。それが二人の最期の男女の夜だった。
自分への断ち切れない想いをそれでも断ち切るために髪を落とす女性の髪を洗う――小説家はいったいどんな気持ちなんだろう。女性という性を棄て、崇高な魂に向かって修行を始めようとする女流作家だって、自分の髪をつかんで引っ張って洗い流すその男性の触感を忘れられるのだろうか。それはきっと生涯の楔(くさび)になるに違いない。
物語は女流作家が僧侶になった後も、それ以前と変わらぬ質量で進んでいく。ドロドロなはずなのに読後感は爽やかだ。何より、Nikoleta Sekulovic Mercuryの描く美しい装丁と『あちらにいる鬼』というタイトルが好き。
sachikoi